「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さん「阪田寛夫さんとの思い出」について語る

大中恩さんと語る。阪田寛夫さん(「サッちゃん」の作詩者)の思い出。小野忠男、五十野惇、片山有美子、星野梨沙、小野節子、永井雄大、岸田玖実子、喜多唯千香、喜多貴子、喜多皓美、喜多美琴、北川明奈、本間藍子 - YouTube

 

福田:ここで阪田寛夫さんとのことを伺いたいと思います。
大中:阪田は、従弟で、親父の姉の次男というわけなんです。
小野:阪田寛夫さんは、「サッちゃん」「おなかのへるうた」の作詩をなさった方で、その他にも、49歳で『土の器』で芥川賞を受賞しておられますね。
五十野:それから、50歳で『サッちゃん』(国土社)で日本童謡賞を受賞され、65歳で日本芸術院会員になられたんでしたね。
大中:はい、そうです。
小野:阪田さんのお宅は、大阪だったそうですね。よく一緒に遊んだという話を伺いました。
大中:はい、阪田の家は大阪で、僕は小さいころから毎年、夏や正月に親に連れられて行っていましたよ。それで、忙しいものだから親だけ先に帰っちゃうって感じでね。
兄弟がいないから、僕にとっては兄弟のような感じで、それは楽しかったですよ。
汽車にも乗れるし。そのうちに、親父に言われて、一人で汽車に乗って行くようになりました。
小澤:一人でですか?
大中:ああ、親父はね、僕を一人でどこへでもやりたくてしょうがなかったんですよ。「汽車なんてそんなもん、乗ってりゃ着くんだから」って言ってね。
小野:自立させようと考えていらしたんですね。
大中:そうでしょうね。親父の話によるとね、親父は自分が初めて一人で行ったのは5年生の時だったそうです。だから僕には「4年で行け!」って(笑)。今みたいに新幹線じゃないから、汽車に乗って10時間くらいかかるんですよ。
五十野:10時間も汽車に乗ってですか、すごいですね。
小澤:「かわいい子には旅をさせよ」ってね。
大中:それで、夏休みの間はそっちにいましたね。阪田の家は、テニスコートが2面くらいあるような家だったんですよ。
小澤:それはたいしたもんですね。
小野:阪田さんとは夏休みにたくさん遊んだわけで
すね。何をして遊んだんですか?
大中:そりゃ、僕の方が1つ年上でしたからね、そのころの小学校3年と4年っていったら、こっちが兄貴ですから。それでこっちはませてて、あいつはおっとりしていまし
たから。くだらない遊びなんかを教え込んだから、あいつの創造力は僕が鍛えてや
ったようなもんだ、なんて言っちゃってね。いろいろと悪いことも教えました。阪
田は、お坊ちゃんで、頭が良いから、もしかしたら僕が得意になって知った顔をし
て教えた気になってただけかもしれませんけれども(笑)。
小野:あはは、なるほどね。
大中:僕は、阪田の家の生活、環境、すべてうらやましかったですよ。昭和の初めころで、兄弟3人にはそれぞれ子ども部屋があり、ベッドや洋服ダンスがあって、その洋服ダンスが大きかったんですよ。それがうらやましかった。
福田:阪田さんの家は、ずいぶん広いお宅だったんですね。
大中:ええ、そうなんです。だからその大きい洋服ダンスに入って遊ぶなんていうのは、秘密の場所を見つけたような感じでしたね。
小野:そりゃぁ、ずいぶん楽しそうですね。
大中:もう楽しくてしかたなかった。でもね、僕としてはちょっと嫌だった思い出もありますよ。
福田:それは、どんなことですか?
大中:何が嫌だったかっていうと、阪田の家は食べ物のことがものすごく厳格なんですよ。たとえば、あのころ世間では「子どもはお腹をこわすからバナナを食べてはいけません」って言って。だから阪田が「バナナを食べたいな」なんて思っても、「ほいっ!」って大人が食べちゃってた。「サッちゃん」の「ちっちゃいからバナナを半分しか食べられないの♪」なんていう歌詩なんかもそういうところからきてるんじゃないかと思うんですけどね。大事にされすぎて体が弱かったのか、弱かったから大事にされていたのかよく分かりませんけれども、阪田はヒョロヒョロって青くてね。僕は、こう、腕のあたりまで日焼けしてて。僕なんか東京に帰ったら、「拾ってでも食べなさい」っていう家だったから(笑)。それから、「コロッケは何がいい?」って聞かれて、阪田兄弟なんかは「ホワイトソースのクリームコロッケ」なんて言うの。僕なんかは「ジャガイモ」か「サツマイモ」しか知らないのにあいつの家は金持ちだったからね。僕もそれを食べたいんだけど、後から「それと同じのをくれ」っていうのが、なんか言えなくってね。普段は、年上だからって僕が威張ってるし、鉄棒なんかやる時には僕が主導権を握ってるのにね。それだから「チクショー!」って(笑)。
小野:プライドがあったんでしょうね。
大中:はい、でも、おばあちゃんにはそれがわかっていたんですよね。それで、僕に「今のうちにおいで」って言って、離れのおばあちゃんの部屋にいくと、いろんなお菓子を「見つからないように」ってくれたんですよ。
小澤:やはり離れているお孫さんが可愛かったんですよね。
小野:阪田さんは「おさの会」(後述)のパンフレットで、「小学生時代、メグチャンは僕の偶像だった。人生最大の楽しみは春や夏の休みに、彼が東京からやってくることだった。メグチャンは東京弁を話し、スマートで、野球が上手で、歌と即興ダンスが上手で、要するに悪いところはひとつもなかった。……(中略)……休みが終わって、メグチャンのいなくなった庭の、掘り返された芝の根っこと乾いた土くれの前にひとりしゃがんでみると、どうしてあんなに面白かったのか、魔法からさめてひとり取り残された僕は、この世がまったくつまらなくなるのであった」と書いておられますね。
五十野:お二人はお互いに、本当に気が合ったんですね。
大中:はい、まあ、なんていうんでしょうかね、阪田は大実業家の息子で僕は貧乏音楽家の倅でしたから、僕と阪田の家の経済状態はまったく違っていたけれど、二人とも両親がクリスチャンですし、精神的な環境は本当に同じなんですよ。阪田の親父は実業家でしたが、教会を建てて、夫婦揃って自宅を教会の聖歌隊の練習場に提供し、阪田の母親がその伴奏をしたりしていましたよ。
福田:それじゃあ、聖歌隊を通して、宗教的にも音楽的にも、大中先生と大阪の阪田さんの家は、雰囲気が同じなんですね。
小野:それは、やはり何と言っても、阪田寛夫さんのお母様と大中さんのお父様の寅二さんとが姉弟ですからね。
五十野:『土の器』を読むと、阪田さんのお父様は本当に西洋音楽への理解が深い方で、よく外国から一流の音楽家を次々に呼んだりして、地方の名士になっておられたとのことですね。
大中:はい、それなのに、僕の親父は伯父のことを「そういうことをして気取っていやがる」とか言ってね。以前自分が作曲家になることを、伯父に反対されたせいもあるのかもしれませんが、でも、その後、伯父のお陰で親父は、ドイツに留学できたんだと思うんですけれども、親父はそういう表現しかできないんですね、きっと。
小野:『土の器』にも、阪田さんのお父様のことを「あの男ほど、本当の音楽と縁の遠いやつはいない」とか「俗物の標本みたいな男」なんてことが書いてありましたね。両方の家が似ているだけに、かえっていろいろと難しいこともあったんでしょうね。
大中:まあ、親父はそういうひねくれた表現しかできないんだと思うんですけどね。それから、阪田の家の教会には、幼稚園も作ってね。その幼稚園の園長を阪田の母親がやっていたんですよ。
小澤:ああ、そうなんですか。
大中:その幼稚園でも、大中寅二が弟ということで、阪田の母親は、山田耕筰と大中寅二の子どもの歌を一生懸命教えていたんですよ。僕の家も、お袋が教会の幼稚園で保母をしていて、そこで山田耕筰と大中寅二の歌を一生懸命にね。歌と言えば、大中寅二、山田耕筰ということだったんですよね。だから、僕らはとっても似ているんです。
福田:そうですか。
大中:ですが、阪田の生家は、うちの両親よりももっと堅いクリスチャンだったから、相当苦労したんじゃないですか、そういうところから抜け出そうって。あいつは頭がいいから、自分の考えというものをしっかりと持っているんですよ。まあ、もとが突き詰めちゃう性格だし、信仰のことなんかにしてもね。その点、僕なんかは神様ってどういうものなのかなんて考えたことがないから、だから生か死かなんて考えたりしたら、
もういいやってなっちゃうね。そういう面では僕と阪田はきっと違うんですけれど。
小野:ところで、阪田さんは先生のことを何て呼んでいらしたんですか?
大中:結局亡くなるまで僕のことは「メグチャン」って呼んでましたね。ぼくは「寛夫ちゃん」って。
小澤:ずっと名前で呼び合ってたんですね。

 

2023-12-27追記

大中さんが幼少期にご両親と撮られた写真を掲載させていただきます。

1924年撮影。)

 

(1926-01-24撮影、大中さんが2歳の頃)

 

 

<大中さんが、お母様に思いをはせて書かれた、貴重な色紙を掲載いたします。>

 

(2006年2月27日に書かれました)

 

なお、こちらの写真はにっけん教育出版社が発行しております、「親子で楽しむ童謡集 第3集」にも掲載されているものです。

 

#大中恩

#サッちゃん

ソプラノ歌手 森野美咲さんの歌に感動して

5月17日(火)夜7時から、東京オペラシティリサイタルホールで行われた、”森野美咲さん”のコンサートを妻の節子と、娘夫婦と一緒に聴きに行きました。

にっけんで、一緒に働く、映像制作のアーティストの片山有美子さんをはじめ、10人の制作スタッフも、楽しみにしておりましたが、満席とのことでした。来年こそは、聴きたいと・・・!

ソプラノ歌手、森野美咲さんの歌は、何回か聴かせて頂いたが、素人の私には、今回が一番のっている感じがしました。ピアノの木口雄人さんは高校時代の同級生とのこと。二人の息がピタリと合って…ウィーンから世界中に大輪の薔薇を咲かせて観るも聴くも見事!

森野美咲さんのますますのご活躍を祈念申し上げます。

 

 (たいりんのうたひめうぃいんのばらのはな) 〔季語:薔薇 夏〕

”湯山昭の音楽”に感動して

3月27日(日)の15時から東京オペラシティ コンサートホールで行われた ”湯山昭の音楽” を妻の節子と一緒に聞きに行きました。

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作曲家、湯山昭さんの名曲の数々、司会を務めた湯山昭さんのお嬢さんの愛情のこもった軽妙なトークに感動しました。

 

童謡集や、にっけん小野童謡文化賞贈呈式を思い出します。

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コンサートの後、湯山昭さんご夫妻に挨拶でき、お二人ともお元気なことがわかり、大変嬉しかったです。どうぞ百寿を超えてまでもお元気でご活躍くださいますよう、祈念申し上げます。

これからも湯山昭さんのコンサート、お嬢様の司会を楽しみにいたしております。

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謹賀新年

令和4年、新年あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

今年のお正月は、妻の節子と、伊豆の網代の温泉へ行きました。

3日は、(昨年はコロナ禍でできませんでしたが)毎年恒例の小野家の新年会を、四ツ谷ホテルニューオータニの中庭にある、もみじ亭で催しました。
(例年の、寿司店久兵衛は、コロナ禍で、個室が使えず)

家族みんなで、食事して、新年をお祝いいたしました。

 

本年も、皆さまのご健康とご多幸を、心よりお祈り申し上げます。

 

 

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「ふたあつ」(まど・みちお 作詩 山口保治 作曲)の映像が完成いたしました。

ぞうさん」で知られる作詩家、まど・みちおさんとの対談映像が完成いたしました。
NHK番組「おかあさんといっしょ」「なかよしリズム」等の元ディレクター、元東京家政学院大学教授で友人の、五十野惇先生に監修を、アーティストの片山有美子さんに映像の編集、制作をお願いいたしました。

活字だけでは表しきれない、まど・みちおさんの、貴重なお話を皆様にお伝えできればと願っております。

「ふたあつ」(まど・みちお/作詩 山口保治/作曲)。小野忠男、五十野惇、片山有美子、星野梨沙、小野節子、永井雄大、岸田玖実子、喜多唯千香、喜多貴子、喜多皓美、喜多美琴、北川明奈、平井香穂、福田菊子 - YouTube

 


「ふたあつ」(まど・みちお/作詩 山口保治/作曲)。小野忠男、五十野惇、片山有美子、星野梨沙、小野節子、永井雄大、岸田玖実子、喜多唯千香、喜多貴子、喜多皓美、喜多美琴、北川明奈、福田菊子、本間藍子 - YouTube

 

小野:あの、「ふたあつ ふたあつ なんでしょね」っていうのも、まど先生の詩ですよね?「ふたあつ ふたあつ なんでしょね」って、あれも随分流行りましたよね、先生。

尾上:あれは昔の歌(昭和11<1936>年3月レコード発表)ですからねえ。

まど:あれが私の歌でレコードになったのが初めてですね。

福田:家に、あったみたいに思います。「ふたあつ ふたあつ なんでしょね」

小野:「ふたあつ ふたあつ なんでしょね」

福田:すごいレコードで、ものすごいこうやってまわして聞いた記憶があります。家に蓄音機っていう物があって、こうやって、回して…

小野:まど先生、自分の書いた詩が童謡になって歌われていった時の感じっていうか、どんなお気持ちになりますか?

まど:もちろん嬉しかっただろうと思いますけどね。あれはキングレコードの第1回作、キングレコードができた時の、何回目かの作品だったんですよ。その時4曲くらい一緒に発売になったと思うんですけど、そのうちの1曲だったんですね。

福田:「子鹿のバンビ」とかほとんど一緒ですよね?

尾上:もっと前ですね。ええ。先生、「ふたあつ」をお作りになったのは戦前ですか? 

まど:台湾にいるときですね。発売されてから初めてのヒットでしようね、あれが自分の中では。

小野:そうすると、先生。レコード会社が許可受けたとか。

まど:そんなこと全然ないです。あれは山口さんだったかな、山口保治さんだったかな、作曲家が。作曲したっていう話は聞いたと思いましたけれども、それがそういうレコードになったということは全然知らなかったですね。

小野:先生、許可を得なくていいんですか

まど:いや、本当は当然得なくちゃいけないと思いますけどね。

尾上:日本は著作権後進国ですから、その頃はまだ著作権はね、ちゃんと整備されてなくて。昔はもう・・・。

まど:おそらくね、レコードにしてやったら喜ぶに決まってると。

 

 

まど・みちお さん インタビューその1

まど・みちおさん「ぞうさん」はじめは、團伊玖磨ではなく、酒田富治が作曲。まど・みちお×小野忠男 - YouTube

 

まど・みちお さん インタビューその2

まど・みちおさん「ぞうさん」誕生の真実。まど・みちお×小野忠男 - YouTube

 

まど・みちお さん インタビューその3

まど・みちお さんの半生。山口県徳山市(現在の周南市)時代から台湾時代。まど・みちお×小野忠男 - YouTube

 

まど・みちお さん インタビューその4

まど・みちお さんの創作力。まど・みちお さんは絵や詩をどのようにつくられるのですか?まど・みちお×小野忠男 - YouTube

 

まど・みちお さん インタビューその5

まど・みちお さんの健康法と発想法。聞き手「詩人・にっけん教育出版社代表:小野忠男さん」まど・みちお×小野忠男 - YouTube

 

まど・みちお さん インタビューその7


http://www.nikken-net.com/onotadao/onopdf/2mado.pdf

にっけん日本教育研究所ホームページ

にっけん教育出版社ホームページ
 

まど・みちおさん直筆の色紙



 

横綱白鵬関45回目の優勝

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(ともおうえんはくほうしじゅうごなつもえて 忠男) 

〔季語 夏(夏)〕


無二の親友である、元国務大臣の小澤潔(小沢潔)さんと、両国国技館での大相撲を10年近くにわたって、一番前に2人並んで観戦しました。

大相撲が大好きな小澤潔(小沢潔)先生、横綱白鵬の大ファンでもありました。

もうすでに亡くなりましたが、今回の白鵬の45回目の優勝も天国から大変喜んで見ていることと思います。

小澤潔(小沢潔)先生とは、お茶を一緒に習ったり、陶芸教室も一緒に習ったり、武蔵野美術大学の元学長の前田常作さんと3人で一枚の色紙に書を書いて遊んだり、能を観に行ったり、小澤潔(小沢潔)先生ご夫妻と私夫婦でモンゴル、南アフリカアメリカ、北欧を旅行したり、また四国八十八か所巡りなど、お寺まわりもしました。

 

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「おなかのへるうた」(阪田寛夫 作詩 大中恩 作曲)の誕生の秘話"の映像が完成いたしました。

「おなかのへるうた」(阪田 寛夫 作詩 大中恩 作曲)の誕生秘話。小野忠男、五十野惇、片山有美子、星野梨沙、小野節子、喜多唯千香、喜多皓美、喜多美琴、坂田明奈、本間藍子、上妻紘人。 - YouTube

 

子どもたちに夢と喜びと愛の心をはぐくみたいという願いから、私どもでは『親子で楽しむ童謡集』を編纂、出版いたしております。
親子で楽しむ童謡集第3集は、「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」「おなかのへるうた」などで知られる作曲家、大中恩さんの特集です。


 この度、大中恩さんとの対談を記録した映像が見つかりました。
NHK番組「おかあさんといっしょ」「なかよしリズム」等の元ディレクター、元東京家政学院大学教授で友人の、五十野惇先生に監修を、アーティストの片山有美子さんに映像の編集、制作をお願いいたしました。


大中恩さんは生前、「歌は、生きる力を呼び起こす魔法の種のようなもの。聞いてくださる方々が、明るい気持ちになるように、音楽でやさしい心を伝えたい」とおっしゃっておりました。
活字だけでは表しきれない、大中恩さんの明るく楽しい、ユーモア溢れるトークを、皆様にお伝えできればと願っております。

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大中恩さん  小野忠男  帝国ホテルにて

 

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大中恩さん 直筆「おなかのへるうた」

 

大中恩さんの直筆楽譜「おなかのへるうた」 は 『親子で楽しむ童謡集 第3集』(にっけん教育出版社)125ページにございます。ぜひご参照ください。▽




 

以下、『親子で楽しむ童謡集 第3集』(にっけん教育出版社)より引用

福田:次は「おなかのへるうた」についてお話しください。

野:この曲も阪田さんの作詩でしたよね。1960年(昭和35年)10月、大中先生が36歳の時に発表されていますよね。

大中:そうです。「サッちゃん」を作ったら、わりと評判がよかったので、「もう1つ二人で作ったら金になるぞ」なんて言ってね(笑)。それが 「おなかのへるうた」なんです。更に、色気を出して二人で作ったけれど、もうダメでしたねえ(笑)。色気を出したらダメだっていう事ですよね。

福田:あ、そうなんですか(笑)。

小野:「おなかのへるうた」の詩をご覧に なったときも、大中先生は一字も直さないで「これは」という感じで、自然に曲ができたんですか?

大中:はい、そうです。僕は詩をあまり直したことがないんですよ。

小澤:私の幼稚園でも、この歌は大人気ですよ。

小野:“どうしておなかがへるのかな”の「どうして」は、質問期の幼児にピッタリですし、“おなかとせなかがくっつくぞ”に子どもたちは「そんなことあるのかな?」と、本当にびっくりするんですよ。

五十野:“くっつくぞ”のメロディーが面白いですよね。

大中:「おなかのへるうた」の中の“かあちゃんかあちゃん”という歌詩があるんですが、そこにNHKが「“かあちゃん”なんて言葉はよくない」と言うんで「それじゃ、“おかあさま”にでもするか」って意見をたたかわせたことがあったんですよ(笑)。

福田:ヘえ、そんなことがあったんですか。 大中:そのころのNHKは、まだまだそんな考え方でしたからね。

小野:でもそれは、大変でしたね。

五十野:大中先生が作曲した歌が“かあちゃん”だったんで、NHKでも「もう 仕方がない」ということになったんですよ。大中先生の曲でなかったら、きっとNHKでも「“かあちゃん”はまずい」ということになったかもしれません。NHKでも意見が分かれましたからね。

小野:その当時のNHKを負かしたんだから、それはやはり大中先生の力は大 したものだったわけですよね、当時から。

五十野:“とうちゃん”“かあちゃん”という言葉は阪田先生と大中先生で、はやらせたわけですね(笑)。

大中:面白いんですよ、阪田の家は。僕と違って、いいとこのお坊ちゃんなんですけど、自分の子どもには、“とうちゃん”“かあちゃん”と呼ばせて いたんです。はじめは“パパ” “ママ”だったと思うんですけれど、いつの間にかね。かえって粋だな、なんて思ったりしますが。

 

 


「すいれん」「メチャクチャがえる」小野忠男の童謡文化フォーラム3・作曲家渡辺茂と語る。「たきび」「ふしぎなポケット」の渡辺茂×小野忠男

 

 


まど・みちお さんの創作力。まど・みちお さんは絵や詩をどのようにつくられるのですか?まど・みちお×小野忠男