「サッちゃん」・「いぬのおまわりさん」の作曲者、故大中恩さんの奥様 大中清子(ソプラノ 北原聖子)さんと歌舞伎観劇

 1月14日、故大中恩さんの奥様の清子さん、妻の小野節子、孫の喜多唯千香と銀座の歌舞伎座に行き初春大歌舞伎の第二部を心ゆくまで堪能しました。

 

(左から妻 節子、小野忠男、大中清子さん、孫 喜多唯千香)

 

 

 私はすっかり忘れていましたが、大中清子さんによれば、にっけんが大中さんご夫妻を歌舞伎座にご招待したのはこれまで3回ほどあったそうです。あの頃は、大中恩さんご夫妻をはじめ、児童文学作家の松谷みよ子さん、岩崎京子さん、宮川ひろさんたちと毎年のように歌舞伎観劇を楽しんでおりました。

 

 観劇後、ホテルニューオータニ寿司店久兵衛」に行き懇親会。そこではまるで大中恩さんがご一緒にいるかのような、温かく楽しい雰囲気になりました。

(左から孫の喜多唯千香、小野忠男、大中清子さん、妻の節子)

 

 以前、帝国ホテルやホテルオークラでお食事をしながら大中恩さんと対談しましたが、その様子を7本の動画にまとめてYouTube上に公開しております。当時、大中恩さんは81歳、奥様の大中清子さんといつもご一緒に仲睦まじくしていらっしゃいました。

(2006年1月16日、帝国ホテルにて撮影)

 

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(画面中央左から大中清子さん、大中恩さん、小野忠男 

              ホテルオークラ 鉄板焼 「さざんか」にて撮影)

 

大中清子さんのお話では、来たる2024年には大中恩さんの生誕100年に際して「大中恩生誕100年記念プロジェクト」が始動するとのこと。私どもでも、できる限りの協力をしていきたいと思います。

 

昨年7月25日には、ルーテル市ヶ谷ホールで行われた「北原聖子(大中清子)リサイタル」へ妻とともにうかがい、聖子さんの美しい歌声に夫婦ともども大変感動いたしました。聖子さんの今後のご活躍を楽しみにいたしております。

ソプラノ歌手 森野美咲さんの歌声に正月から感動!

(放送時の画面をもとにアーティストの片山有美子さんが絵を作成)

 

 NHK Eテレ1/3(火)19:00-21:00に放送された「第65回 NHKニューイヤーオペラコンサート」にソプラノ歌手の森野美咲さんが出演し、その歌声に非常に感動しました。

 

【以下、NHK NEWS WEBより番組情報の引用】

オペラが描くさまざまな愛のかたち▽楽しい愛、苦しい愛、家族への愛、友人への愛、祖国への愛を日本を代表するオペラ歌手たちが歌い上げる。オペラの名曲とともに新年を! 正月恒例のオペラの祭典!▽NHKホールからEテレとFM、そしてBS8Kで生放送▽こうもり、ホフマン物語、トスカ、ナブッコシモン・ボッカネグラトゥーランドット、ウェルテルなどからアリアと名場面をお届け

 

 森野さんは、シュトラウス作曲の喜歌劇「こうもり」から「侯爵様、あなたのようなお方には」の合唱にメインメンバーとして参加した後にアリアを歌唱し、エンディングにも出演しておりました。特に「こうもり」では、森野さんは持ち前の圧倒的な歌唱力はもちろんのこと、表情豊かにまた扇を使ったユーモアあふれた大きな動きで聴く私たちを魅了しました!年が明けて早々に森野さんの歌声から感動をもらいました。ありがとうございました!


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謹賀新年

2023年(令和5年)、新年あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。

今年のお正月は、2日から3日にかけて、毎年恒例の小野家の新年会を、山中湖畔にあるエクシブ山中湖で催しました。

家族みんなで、食事して、新年をお祝いいたしました。

本年も、皆さまのご健康とご多幸を、心よりお祈り申し上げます。

お正月の俳句を作りましたので、ご覧ください。

 

ソプラノ歌手 森野美咲さんの歌声に感動して

 10月26日(水)夜7時から、銀座 王子ホールで行われた”森野 美咲さん”のコンサートを友人の皆さんや家族と一緒に聴きに行きました。

椰子の実の映像より

 友人でアーティストの片山 有美子さんは、初めてオペラを聴いたとのことですが、「あまりにも素晴らしい歌声に自然と涙が出てきた。」と言っていました。また、私の孫の喜多 唯千香も「森野さんの歌声が透き通っていて綺麗で、つい感動して泣いてしまった、聴きに行けてよかったです!」と言っていました。

 前回5月17日の東京オペラシティーでのコンサートでは15枚チケットを取りたかったのですが、5枚しかチケットが手に入りませんでした。今回は早めにチケットを購入したので、友人や家族みんなでコンサートを聴きに行くことが出来ました。書道教室の大先輩の平 明道(たいら あきみち)税理士先生とご家族のみなさま、滝島 克明さんご夫妻、友人の佐藤 敏道さん、俳句の後藤 智子さんとお嬢さん、教え子の故・山田 大輔くんの奥様、友人でアーティストの上妻さんや、片山さん、友人の本間さん、本部でお仕事をして下さっている学生さん2人、私と妻と、娘の一家で、総勢25名になりました。

天高し富士も祝うよオペラの日
(てんたかしふじもいわうよおぺらのひ 忠男)〔季語:天高し(秋)〕

10月26日夜7時から、ソプラノ歌手の森野美咲さんのコンサート。2020年ヨハネス・ブラームス国際コンクール声楽部門にて日本人史上初の第1位を受賞。
昨夜も、美しい歌声に、感動、万雷の拍手!

 

ソプラノ歌手 森野美咲さんの「椰子の実」の歌声に感動して!「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さんと語る「椰子の実」作詞:島崎藤村 / 作曲:大中寅二 / 歌:森野美咲 / ピアノ:木口雄人

「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さんと語る「椰子の実」作詞:島崎藤村 / 作曲:大中寅二 / 歌:森野美咲 / ピアノ:木口雄人 - YouTube

 

歌:森野美咲(もりの みさき)

岡山市出身、ウィーン在住のソプラノ歌手。東京藝術大学卒業、ウィーン国立音楽大学修士課程首席修了。ヨハネス・ブラームス国際コンクールに日本人として初めて優勝し、 日本音楽コンクールでも優勝。ウィーン楽友協会、コンツェルトハウス、ウィーンフィル夏のアカデミー等で数々のオペラやコンサートに出演し、プロ野球オールスター戦にて国歌独唱を務めるなど、注目のソプラノ。

ピアノ:木口雄人

 

大中:あのぉ、だから、親父の「椰子の実」(作詞:島崎藤村、作曲:大中寅二)なんてねぇ、何十年か前に伊良湖の浜には藤村の詩碑はできた。親父の曲碑ができたのは、十年ぐらい前でないのかな。
福田:伊良湖なんですか。鳥羽の近くですよね?伊良湖岬は。
大中:反対側です。半島がこうある反対側です。
小野:あれもぉ「名も知らぬ遠き島より」って、あれもメロディーがなければ、あれだけ親しまれないねぇ。
大中:あれは、やっぱあの時代のねぇ、南方にどんどん日本軍が行ってねぇ、日本から移住した人も多くなって。そんな時代にマッチしたんでしょうね、きっと。日本の戦争のずっと前だからね、昭和十一年てことは、僕が十一の時。

小野:先生、やっぱお父さんがそういう名曲作られたというのを歌って、特に歌ったり。「名も知らぬ」って先生、子どもながらに歌ったでしょう?阪田さんと。
大中:僕は子どもの時にだから、あの頃、生放送ね。愛宕山にね、あのぉ、豪勢ですよあの頃は、国民歌謡をやる生放送で行くと、ちゃんと家まで、あのぉ、NHKがお迎えに来て、僕は一緒に車に乗りたくて、あのぉ、親父にくっついてね、愛宕山行ってね、あのぉ、東海林太郎が歌ったんです。
小野:「なもしらぬ」とか、先生お聞きになったんですか?
大中:もちろん「名も知らぬ」
小野:感激した?子どもながらに。
大中:でも、東海林太郎にはあんまり感激しなかった。何故ってね、結果的には東海林太郎が歌ってくれてとてもねぇ、良かったんだけど。親父は、承諾せざるをえなかった感じ。そこは良く分かりませんけどね。あのぅ、子どもの歌でもね、僕に、あのぅ、山田耕筰の弟子ですから親父は、あのぅ、山田耕筰以外の童謡は僕には歌わせない。あんなのは音楽じゃない。てなことをね。
福田:藤村のも歌えなかった?
大中:うん?
福田:「椰子の実」も歌えなかったですか?
大中:いやいや、
小野:「椰子の実」はお父さんの歌だから。
大中:だから、親父か山田耕筰の歌しか、子どもとしては歌ってない。まぁそりゃ、聞いてるうちに覚えますよ。そりゃ。どっかでね、聞いちゃうから、覚えるんだけど。だからあの頃、あのぅ、東海林太郎なんていうのは流行歌手のトップでしょうね。だから、まいったぁ、どうかなぁ?自分で子供の中に、心に、そう思っていたのねっ。
小野:やっぱり先生、「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」も「椰子の実」のお父さんとか、その、山田耕筰の影響も受けてるような感じがするんですか?先生の中では。
大中:ハハハどうでしょうねぇ?それはもう、あのぉ、お聞きになる周りの皆さんが、昔はよくねぇ、何かを作っても、「あぁお父さんとそっくりですねぇ」、「こんちきしょう」なんて思ったりしてね。
小野:お父さんが自分の歌と、山田耕筰の歌しか歌わせなかったということは、先生の中で、そういう何かが血となり、肉となってる可能性があるとも聞こえますがね。教育的にね先生。でも影響をかえって、受けるなとも言われたんですよね、先生?
大中:うん、やっぱり受けたでしょうね。中山晋平さんの歌、そういうのは、あまり良い歌、子どもの歌じゃないんだというのは暗にね。今思うと、今になってみると、何にでも、一つでも残せる歌が書ければ僕はね、良いなと思いましたけどね。まぁちょっと「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」、そういう子どもの歌だから、楽しいじゃないですか。ねぇ、親父が亡くなった時、NHKが大中寅二が亡くなりましたって「椰子の実」をバックヤードに配してくださったんですけどもね、もしも俺が死んだ時ね、「まいごの まいごの こねこちゃん」やっぱり成仏できないんじゃないかと思うんだよね。アハハ。そんな意味ではああいう歌を作りたいんだけど。まぁあれは、「サッちゃん」や「いぬのおまわりさん」にしても「椰子の実」にしても時代とあれにとても。

(筆記者:村松 颯太)

 

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「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さん「音楽家への道、作曲の心」について語る ! ソプラノ歌手 森野美咲さんの歌もお楽しみ下さい。

大中恩さんと語る。「音楽家への道」他。小野忠男、五十野惇、森野美咲(歌)、木口雄人(ピアノ)、片山有美子、星野梨沙、永井雄大、岸田玖実子、村松颯太、喜多唯千香、喜多貴子、喜多皓美、喜多美琴、北川明奈 - YouTube

 

 

歌:森野美咲(もりの みさき)

岡山市出身、ウィーン在住のソプラノ歌手。東京藝術大学卒業、ウィーン国立音楽大学修士課程首席修了。ヨハネス・ブラームス国際コンクールに日本人として初めて優勝し、 日本音楽コンクールでも優勝。ウィーン楽友協会、コンツェルトハウス、ウィーンフィル夏のアカデミー等で数々のオペラやコンサートに出演し、プロ野球オールスター戦にて国歌独唱を務めるなど、注目のソプラノ。

ピアノ:木口雄人

 

写真左:母・大中文子さん
写真中央:父・大中寅二さん
写真右:大中恩さん

大中:親父は、親の言う通りになるような息子はダメだって、よう言うからね、じゃあ、作曲家、音楽家になっちゃいけないのかなぁと思って。音楽をやりたいなと、思ってた時に、教会の牧師さんの妹さんが、僕好きだったんですよ。
小野:ワハハハハハ。
大中:向こうは知らないけどね。それで、相談に、中学生の時ね、「どっちがいいかなぁ?母なんかはもちろん、「神様の言う心を伝える伝道師になるのが一番良いと。」
小野:お母さんの方は。へぇ。
大中:親父はもう何も言わない。で、僕はそこ(牧師さんの妹さん)に相談に行ったら、「あなたは、音楽家になることが、本当に神様の心を伝えることになるのよ。」と、こう言われたものだから。
小野:誰から?
大中:その、
福田:女の方から。
大中:うん。
福田:はい。
小野:牧師さんの妹?
大中:うん、そう。
小野:えぇえぇ。
大中:それでもう、それが神の声だと思ったからね。女性の。
小野:アハハハ。
大中:いっつも女性の声に従っている。
小野:ワハハハハハ。
大中:今でも、「こうしろ」と言われたら、何でもしますよ私は。
小野:ワハハハハハ。

五十野:教会の音楽と、先生の作曲法は何か違いがありますか?
小野:作家、
五十野:作家とか。
大中:もうそれは、若い時はものすごく意識しました。ですから、あのぅ、親父と同じ事はやりたくない。
五十野:あぁなるほどなぁ。そんなこと読んだことがありますけど。
大中:宗教音楽・・・はやりたくないな。ってことで、教会からも離れたんだ。別に、まぁっ、昔から不信仰ですけど。そのぐらい離れちゃわないと、やっぱり親父と同じ事をやりそうで、それが一番怖かったんですよね、若い頃は。

小野:じゃあ、あれですか先生、見た時に、その、作曲する時にピアノを使って先生やるんですか?それともピアノを使わないで。
大中:それは、使いますよ。ピアノが無けりゃってことではないですけどね。でね、旋律ができて、伴奏して、とか、そういうんじゃないからね。一緒に進行するからね。
小野:読んでるうちに、例えば「サッちゃんはね サチコっていうんだほんとはね」詩を読んでるうちに浮かぶんでしょうか?それとも先生、あのぅ。
大中:アハハハハハ。色んなあれがあるんだろうけど、「サッちゃん」なんかは、もう本当に、読んだ時に。
小野:浮かんでくる?
大中:浮かんでくる?だから、おかしな話がありますね。僕は、あのぅ、阪田の詩はまぁ好きでしたけどね。色んな素人さんの詩でもね、僕は面白いなと思ったら、書いちゃう、でしょ。でね、ある時ね、うちのコーラスの方が書いた詩がね、喫茶店で見せてもらって。そしたら、なかなか良い。お母さんが亡くなった時の歌を、亡くなった日に書いた詩をね、見せてもらった。あぁ、これ、とてもいいじゃないの、ってんでね。その時五線紙持ってなかったもんで、こういうナプキンに、ちょちょっと五線書いて、こうやって、ちょっと留めておこうと思って書いたんです。そしたら、その方も、ちょっとこうだって、ピアノを弾いて、音大出の方ですけど。「あら、先生作曲家みたい!」
小野:アハハハハハ。
大中:それで自分でも、「あぁそうだねぇ。」という感じで、僕はいつも作りたいんですよ。「The 作るよ!」なんていうんじゃなくて。
小野:そうじゃなくて。ちょっと天才的だね、やっぱそういうとこで。
大中:いいですね、天才的だって。

五十野:(「サッちゃん」の曲は)“ヨナ抜き”ということで、それは何か意識されました?
大中:全然してないですよ。
五十野:出来上がったら、“ヨナ抜き”だったの?
大中:“ヨナ抜き”だって阪田が言ったんですよ。ずっと経ってからですよ。「そういうこと言うなよ」言ったのを覚えてますよ。「そんなこと俺は意識して書いてるんじゃない。」
五十野:あぁなるほど。 
大中:でもやっぱりそういう響きが出て来たということは、なんか、ある意味何て言うかなぁ、まるで歌うような物言いにしたいと思ったのかなぁ。
五十野:「むすんでひらいて」も“ヨナ抜き”ですし、それから、「チューリップ」ですか?あれも“ヨナ抜き”だし、ですから、先生なんか、やっぱり、意識したのかなぁ、と思ったりなんかしたんですけどね。
大中:僕はもうねぇ、他の歌の、ひじょうに日本的なハーモニーを使おうとかね、そういう風に思ったことが無いんです。いずれ、俺が書いたんだから日本の歌だつうのを思ってるもんですからね、日本的なハーモニーを使うとか、日本的な旋律にしようとか、長い詩だったら、ある部分日本的なものになるかもしれないけど、ある部分、西洋的なメロディーになっても、響きになっても良いんじゃないか、それが、俺という日本人が書いている、ようなつもりで書いていますからね。しっかりしてないから、おかしいと言われるのかもしれないけどね。それは分からない。
小野:構えるんじゃなくて、もうその詩に、自分が、ひらめきなのかな、先生?浮かぶ?
大中:良く言えばね、ひらめきみたいなものかもしれないけどね。

(筆記者  村松 颯太)

 

 

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「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さん「ろばの会」「こどものうた」について語る

「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さん「ろばの会」について語る。小野忠男、五十野惇、片山有美子、小野節子、永井雄大、岸田玖実子、田中和真、村松颯太、喜多唯千香、喜多皓美、喜多美琴 - YouTube

 

福田:「ろばの会」についてお話を伺いたいと思います。どういうきっかけで「ろばの会」ができたんですか?
大中:あれは1955年(昭和30年)にできたんです。僕が30歳の時でしたね。音大を出てからそれまで、僕は、童謡を作ろうと思ったことはなかったんですよ。童謡への興味もなかったの。当時のレコード童謡はくだらない、とずっと思っていたんですよ。というのも、僕というより親父がね、そう言い続けていましたから、やっぱりアクの強い親父の影響は大きいんですよ。何と言っても、親父が僕に歌わせるのは、山田耕筰の子どもの歌だけでしたからね。今でこそ、くだらないなんて思ってはいないですけど、当時は思ってたんですよ。だから童謡という言葉も、僕は毛嫌いしていたんです。
小野:中田喜直(本名:よしただ)さんの『音楽と人生』(音楽之友社)を読むと、磯部俶の提案によって、“こどものうた”の作曲家グループ「ろばの会」が結成されたと書いてありますね。
大中:ええ。それまでの重語は、「赤い鳥」の運動のように、どちらかというと詩人が作曲家に呼びかける形で作られることが主流でした。それを逆に、「作曲家から精力的に詩人に呼びかけてみよう」ということで、中田喜直さん、磯部俶さんという僕の先輩が、そういった運動を始めることになり、その時になぜか僕も誘われたんです。
福田:「ろばの会」は5人の作曲家が集まって、ということですね。
大中:ええ、中田喜直さんと磯部俶さん、中田さんのお兄さんの中田一次さん、宇賀神光利さんと僕の5人です。「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた“を作っていこう」という言葉に妙に心ひかれたんですよ。でも、本当のところ、どんなふうに進んでいくのか心配でしたけれどもね。
小野:「ろばの会」では、それで“童謡”を“こどものうた”と言い改めたわけですね。
大中:そうなんですよ。宇賀神光利さんは、1967年(昭和42年)に亡くなったんで、それで、結局は4人でやってたんですよ、後の30年くらいはね。
福田:それでは、大中先生が童謡を作るようになられたきっかけは「ろばの会」に参加したことなんですね。
大中:そうなんです。僕が作曲家として童謡を作るきっかけになったのが、この「ろばの会」だったんですね。今思えば、この運動に誘っていただいて、本当に運がよかったなと思っています。
小野:2006年1月発行の「日本童謡協会会報」に、大中先生は「おなかのへるうた」のようなやんちゃな言葉づかいの歌、男の子の歌を作りたいとずっと思っていらした、というようなことが書いてありますね。
福田:確かに、そのころ童謡というのは女の子が歌うものというような、そんなイメージがずっとあったような気がします。
大中:そうですよ。当時は、男の子が歌えるうたは軍歌だとかそういうものしかなかったから、女の子だけじゃなくって男の子も歌える“こどものうた“というものを僕は作りたいと思っていたんですよ。それで「サッちゃん」の歌だって、そういう気持ちを男の子が歌っても、別に恥ずかしいことではないんじゃないかと思ったからねえ。だからそういうふうな曲を作りたいということは当時から僕は言っていましたね。
五十野:「サッちゃん」は、本当に男の子の素直な気持ちの歌ですよね。
大中:そうなんですよ、もっともらしい歌をもっともらしく歌って、もっともらしく聴く、みたいなのは僕は嫌なんですよ。そういう日本人像からは脱却したい。僕はそんなふうに思っていたものですから、だから阪田が「サッちゃん」「おなかのへるうた」のようなちょっと変わった詩を持ってきたときも、曲を作る苦労はあまりなかったんですよ。
小野:ところで、「ろばの会」という名前の由来は何ですか?
大中:童話の中のロバみたいに、肩に力を入れずに、ゆっくりやっていこう、という意味がありました。
五十野:具体的にどのように活動されていたんですか?
大中:“よい詩によい曲を”というスローガンで、外部から依頼されて作るだけでなく、自分たちが自発的に詩を選び、それにメンバーがそれぞれ曲をつけて、人が作ったものにお互いで意見を出し合って、さらに完成度の高い作品に直していく、という活動をしていたんです。
福田:大中先生のご自宅に集まることが多かったそうですね。
大中:そうですね。そのころ、都心に住んでいたのが僕だけだったものですから、僕が住んでいた赤坂の家に多い時で詩人を含め16、7人が集まって、毎回最低2、3時間はやっていました。本当にかなり激しい言い合いをしてましたね。たとえば、サトウハチローさん、まど・みちおさん、小林純一さんなんかの詩人に詩を書いてもらって、「僕が作るよ」「じゃあ俺も作るよ」というふうに皆で曲を作って、そしてそれを持ち寄って、聴き合って作られた曲が、「ろばの会」の作品ということで成長していったんですよ。
福田:「ろばの会」では大中先生が一番若かったと思いますが、皆さん対等に議論されていたんですか? これは良い曲だ、悪い曲だとか。
大中:もちろん、対等に議論していましたよ。それはもう本当に面白かったですね。初めは「これ面白いね」 と言うんですけど、「お前のはあんまりよくないよ」「いやあ、僕の方がいいよ」なんて言ってね。「ここはこうだよ」、「こうした方がいいよ」と、だんだん人の作曲した曲に手を入れていくわけです。もともと作曲家は、自分さえよければいい職業ですからね、なかなかできる経験ではなかったです。そういう意味で、ああいう作曲家のグループは、そうはないと思いますよ。
五十野:では先生も、そうやって他の作曲家の方に言われて直したことがおありなんですか?
大中:僕は、どうでしょうね。直したことがないような気がしますねえ。当時から頑固だったもので(笑)。
小野:当時キングレコードの童謡担当ディレクターだった長田暁二さんが、大中さんのお宅に行くと、「ろばの会」のメンパーが互いに激しく批判し合ったり、真剣に議論し合ったりしている様子をみて驚き、その真撃な姿に感激した、というようなことを書いておられるのを読みましたよ。
大中:そうですよ、長田さんは、「ろばの会」の活動に共鳴してくださり、熱心に応援してくださいました。彼のアイディアでステレオの特性を活かした曲を作ったり。いろんな動物をテーマにいろいろな楽器の使い方を話しの中に盛り込んだ『チュウちゃんが動物闘にいったお話』というLPも作ったし、いろいろやらせてもらいましたよ。
小野:その「ろばの会」で作曲した『チュウちゃんが動物闇にいったお話』が芸術祭賞(第13回芸術祭参加)を受賞し、話題になったそうですね。
五十野:ちょうど、LPレコード出現の時代で、大評判だったようですね。
福田:ところで大中先生は、中田喜直さんとは、もともと仲がよかったんですか?
大中:中田さんとは、東京音楽学校の学生のころからの付き合いで、彼は2級上なんですよ。うちの学校では1級上だとライバルなんですが、2級上だと、みな兄貴分で親しくしていただいていましたね。ある時ね、音楽雑誌に<作曲家から次の作曲家にメッセージを贈る>という企画があって、中田さんは僕のことを書いてくれたんですよ。要するに「大中君というのは、さして人格高邁ならざる人なのに、どうしてコーラスグループにこんなに人が集まるんだろう」って(笑)。中田さんもよく練習に参加してくれてたからね。
小野:コーラスにですか?
大中:そう。で、中田さんは「もしかしたら、人格が高邁ならざるが故に若い人が集まるのだろう。水清ければ魚棲まずってことだよね」 と。そうしたら中田さんのお母さんが、「口で言うのは冗談としていいけれども、ものの本に書くのはいけません。大中さんに謝りなさい」 と言って怒ったみたいですよ(笑)。そうしたら中田さんもちゃんとわざわざ電話をかけてきて、「ごめんね、あんなこと書いて」なんてね。でも僕はああいうふうに書かれると嬉しくてね、「人格高邁ならざる」なんて。「大中君は真面目で……」なんて書かれるよりもずっと安心して見ていられるよね。
小澤:大中先生らしいですね(笑)。
大中:ある時ステージで僕が「中田さんはいいなあ、春は『めだかの学校』(茶木 滋:作詩)、夏は『夏の思い出』(江間章子:作詩)、秋は『ちいさい秋みつけた』(サトウハチロー:作詩)、冬は『雪の降る街を』(内村直也:作詩)と春夏秋冬代表作があって、一年中歌われる歌があって」って話したら、中田さんが「『サッちゃん』『いぬのおまわりさん』だって一年中歌われるからいいじゃないか」って。僕は「あ、そうですか」なんて(笑)。
福田:「ろばの会」に参加したことを、お父様は何とおっしゃっておられましたか?
大中:親父は苦笑いしていました(笑)。
小野:“こどものうた”なんかっていうことで?
大中:はい、そうです。
福田:あら、まあ。
小野:でもお父様は「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」ができたとき、何かおっしゃいませんでしたか?
大中:何も言いませんよ。ただ死ぬ前にね、「俺もこういう曲を作っていたなら、もう少し女房は楽ができただろうにな。自分には♪椰子の実ひとつ♪しかない」なんて言ってましたがね(笑)。
一同:(笑)。
小澤:先生、「ろばの会」に参加してよかったですよね。
大中:そう。「ろばの会」に参加しなければ、僕は“こどものうた”は作らなかったからね。そしたら、「サッちゃん」や「いぬのおまわりさん」もできていなかったわけですから。でも「ろばの会」の最後のころは、中田さんは「“こどものうた”に何かを残したグループだから解散はしないでおこう」って言ってらしたんだけど、僕は「みんなで曲作りをしてないなら、やめた方がいい」って生意気言って困らせたんですよ。
福 田:1955年3月から2000年3月の解散まで、「ろばの会」から多くの名作がう
まれたんですね。