「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さん「ろばの会」「こどものうた」について語る

「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」の作曲者 大中恩さん「ろばの会」について語る。小野忠男、五十野惇、片山有美子、小野節子、永井雄大、岸田玖実子、田中和真、村松颯太、喜多唯千香、喜多皓美、喜多美琴 - YouTube

 

福田:「ろばの会」についてお話を伺いたいと思います。どういうきっかけで「ろばの会」ができたんですか?
大中:あれは1955年(昭和30年)にできたんです。僕が30歳の時でしたね。音大を出てからそれまで、僕は、童謡を作ろうと思ったことはなかったんですよ。童謡への興味もなかったの。当時のレコード童謡はくだらない、とずっと思っていたんですよ。というのも、僕というより親父がね、そう言い続けていましたから、やっぱりアクの強い親父の影響は大きいんですよ。何と言っても、親父が僕に歌わせるのは、山田耕筰の子どもの歌だけでしたからね。今でこそ、くだらないなんて思ってはいないですけど、当時は思ってたんですよ。だから童謡という言葉も、僕は毛嫌いしていたんです。
小野:中田喜直(本名:よしただ)さんの『音楽と人生』(音楽之友社)を読むと、磯部俶の提案によって、“こどものうた”の作曲家グループ「ろばの会」が結成されたと書いてありますね。
大中:ええ。それまでの重語は、「赤い鳥」の運動のように、どちらかというと詩人が作曲家に呼びかける形で作られることが主流でした。それを逆に、「作曲家から精力的に詩人に呼びかけてみよう」ということで、中田喜直さん、磯部俶さんという僕の先輩が、そういった運動を始めることになり、その時になぜか僕も誘われたんです。
福田:「ろばの会」は5人の作曲家が集まって、ということですね。
大中:ええ、中田喜直さんと磯部俶さん、中田さんのお兄さんの中田一次さん、宇賀神光利さんと僕の5人です。「子どもに媚びない、新しい芸術的な“こどものうた“を作っていこう」という言葉に妙に心ひかれたんですよ。でも、本当のところ、どんなふうに進んでいくのか心配でしたけれどもね。
小野:「ろばの会」では、それで“童謡”を“こどものうた”と言い改めたわけですね。
大中:そうなんですよ。宇賀神光利さんは、1967年(昭和42年)に亡くなったんで、それで、結局は4人でやってたんですよ、後の30年くらいはね。
福田:それでは、大中先生が童謡を作るようになられたきっかけは「ろばの会」に参加したことなんですね。
大中:そうなんです。僕が作曲家として童謡を作るきっかけになったのが、この「ろばの会」だったんですね。今思えば、この運動に誘っていただいて、本当に運がよかったなと思っています。
小野:2006年1月発行の「日本童謡協会会報」に、大中先生は「おなかのへるうた」のようなやんちゃな言葉づかいの歌、男の子の歌を作りたいとずっと思っていらした、というようなことが書いてありますね。
福田:確かに、そのころ童謡というのは女の子が歌うものというような、そんなイメージがずっとあったような気がします。
大中:そうですよ。当時は、男の子が歌えるうたは軍歌だとかそういうものしかなかったから、女の子だけじゃなくって男の子も歌える“こどものうた“というものを僕は作りたいと思っていたんですよ。それで「サッちゃん」の歌だって、そういう気持ちを男の子が歌っても、別に恥ずかしいことではないんじゃないかと思ったからねえ。だからそういうふうな曲を作りたいということは当時から僕は言っていましたね。
五十野:「サッちゃん」は、本当に男の子の素直な気持ちの歌ですよね。
大中:そうなんですよ、もっともらしい歌をもっともらしく歌って、もっともらしく聴く、みたいなのは僕は嫌なんですよ。そういう日本人像からは脱却したい。僕はそんなふうに思っていたものですから、だから阪田が「サッちゃん」「おなかのへるうた」のようなちょっと変わった詩を持ってきたときも、曲を作る苦労はあまりなかったんですよ。
小野:ところで、「ろばの会」という名前の由来は何ですか?
大中:童話の中のロバみたいに、肩に力を入れずに、ゆっくりやっていこう、という意味がありました。
五十野:具体的にどのように活動されていたんですか?
大中:“よい詩によい曲を”というスローガンで、外部から依頼されて作るだけでなく、自分たちが自発的に詩を選び、それにメンバーがそれぞれ曲をつけて、人が作ったものにお互いで意見を出し合って、さらに完成度の高い作品に直していく、という活動をしていたんです。
福田:大中先生のご自宅に集まることが多かったそうですね。
大中:そうですね。そのころ、都心に住んでいたのが僕だけだったものですから、僕が住んでいた赤坂の家に多い時で詩人を含め16、7人が集まって、毎回最低2、3時間はやっていました。本当にかなり激しい言い合いをしてましたね。たとえば、サトウハチローさん、まど・みちおさん、小林純一さんなんかの詩人に詩を書いてもらって、「僕が作るよ」「じゃあ俺も作るよ」というふうに皆で曲を作って、そしてそれを持ち寄って、聴き合って作られた曲が、「ろばの会」の作品ということで成長していったんですよ。
福田:「ろばの会」では大中先生が一番若かったと思いますが、皆さん対等に議論されていたんですか? これは良い曲だ、悪い曲だとか。
大中:もちろん、対等に議論していましたよ。それはもう本当に面白かったですね。初めは「これ面白いね」 と言うんですけど、「お前のはあんまりよくないよ」「いやあ、僕の方がいいよ」なんて言ってね。「ここはこうだよ」、「こうした方がいいよ」と、だんだん人の作曲した曲に手を入れていくわけです。もともと作曲家は、自分さえよければいい職業ですからね、なかなかできる経験ではなかったです。そういう意味で、ああいう作曲家のグループは、そうはないと思いますよ。
五十野:では先生も、そうやって他の作曲家の方に言われて直したことがおありなんですか?
大中:僕は、どうでしょうね。直したことがないような気がしますねえ。当時から頑固だったもので(笑)。
小野:当時キングレコードの童謡担当ディレクターだった長田暁二さんが、大中さんのお宅に行くと、「ろばの会」のメンパーが互いに激しく批判し合ったり、真剣に議論し合ったりしている様子をみて驚き、その真撃な姿に感激した、というようなことを書いておられるのを読みましたよ。
大中:そうですよ、長田さんは、「ろばの会」の活動に共鳴してくださり、熱心に応援してくださいました。彼のアイディアでステレオの特性を活かした曲を作ったり。いろんな動物をテーマにいろいろな楽器の使い方を話しの中に盛り込んだ『チュウちゃんが動物闘にいったお話』というLPも作ったし、いろいろやらせてもらいましたよ。
小野:その「ろばの会」で作曲した『チュウちゃんが動物闇にいったお話』が芸術祭賞(第13回芸術祭参加)を受賞し、話題になったそうですね。
五十野:ちょうど、LPレコード出現の時代で、大評判だったようですね。
福田:ところで大中先生は、中田喜直さんとは、もともと仲がよかったんですか?
大中:中田さんとは、東京音楽学校の学生のころからの付き合いで、彼は2級上なんですよ。うちの学校では1級上だとライバルなんですが、2級上だと、みな兄貴分で親しくしていただいていましたね。ある時ね、音楽雑誌に<作曲家から次の作曲家にメッセージを贈る>という企画があって、中田さんは僕のことを書いてくれたんですよ。要するに「大中君というのは、さして人格高邁ならざる人なのに、どうしてコーラスグループにこんなに人が集まるんだろう」って(笑)。中田さんもよく練習に参加してくれてたからね。
小野:コーラスにですか?
大中:そう。で、中田さんは「もしかしたら、人格が高邁ならざるが故に若い人が集まるのだろう。水清ければ魚棲まずってことだよね」 と。そうしたら中田さんのお母さんが、「口で言うのは冗談としていいけれども、ものの本に書くのはいけません。大中さんに謝りなさい」 と言って怒ったみたいですよ(笑)。そうしたら中田さんもちゃんとわざわざ電話をかけてきて、「ごめんね、あんなこと書いて」なんてね。でも僕はああいうふうに書かれると嬉しくてね、「人格高邁ならざる」なんて。「大中君は真面目で……」なんて書かれるよりもずっと安心して見ていられるよね。
小澤:大中先生らしいですね(笑)。
大中:ある時ステージで僕が「中田さんはいいなあ、春は『めだかの学校』(茶木 滋:作詩)、夏は『夏の思い出』(江間章子:作詩)、秋は『ちいさい秋みつけた』(サトウハチロー:作詩)、冬は『雪の降る街を』(内村直也:作詩)と春夏秋冬代表作があって、一年中歌われる歌があって」って話したら、中田さんが「『サッちゃん』『いぬのおまわりさん』だって一年中歌われるからいいじゃないか」って。僕は「あ、そうですか」なんて(笑)。
福田:「ろばの会」に参加したことを、お父様は何とおっしゃっておられましたか?
大中:親父は苦笑いしていました(笑)。
小野:“こどものうた”なんかっていうことで?
大中:はい、そうです。
福田:あら、まあ。
小野:でもお父様は「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」ができたとき、何かおっしゃいませんでしたか?
大中:何も言いませんよ。ただ死ぬ前にね、「俺もこういう曲を作っていたなら、もう少し女房は楽ができただろうにな。自分には♪椰子の実ひとつ♪しかない」なんて言ってましたがね(笑)。
一同:(笑)。
小澤:先生、「ろばの会」に参加してよかったですよね。
大中:そう。「ろばの会」に参加しなければ、僕は“こどものうた”は作らなかったからね。そしたら、「サッちゃん」や「いぬのおまわりさん」もできていなかったわけですから。でも「ろばの会」の最後のころは、中田さんは「“こどものうた”に何かを残したグループだから解散はしないでおこう」って言ってらしたんだけど、僕は「みんなで曲作りをしてないなら、やめた方がいい」って生意気言って困らせたんですよ。
福 田:1955年3月から2000年3月の解散まで、「ろばの会」から多くの名作がう
まれたんですね。